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F1の歴史

<1950年代>
220px-Alfa-Romeo-159-(1951).jpgF1世界選手権は1950年5月13日のイギリスGPで開幕した。

1950年代はヨーロッパ各国のGPに加え、世界選手権という名目上アメリカのインディ500もカレンダーに組みこんでいた。
開幕時の構図はアルファ・ロメオ、フェラーリ、マセラティのイタリア3大ワークス・チームの争いとなった。

1952年と1953年はフェラーリが2年間に15戦14勝と圧勝し、エースのアルベルト・アスカリは2連覇を達成した。

120px-Fangio.png1954年にエンジン排気量を「自然吸気式2,500cc、過給式750cc」とする新規定が施行されると戦前の強豪メルセデス・ベンツが復帰し、斬新な技術を投入したマシンで再びGPを席巻した。

創成期において最も成功を収めたドライバーがファン・マヌエル・ファンジオである。8年間に5度のドライバーズチャンピオンとなり、2003年にミハエル・シューマッハに破られるまで46年間最多チャンピオン獲得記録者であった。

1950年代後半はイタリアの自動車メーカー系コンストラクターに代わり、イギリスの独立系コンストラクターが躍進した。多くは「バックヤード・ビルダー(裏庭のガレージが作業場のレーシングカー製造者)」と呼ばれる小規模チームであったが、優れたシャーシ設計技術によりF1界の中心勢力となっていく。

1958年にはヴァンウォールが初施行されたコンストラクターズ選手権の初代王者となり、ドライバーズ選手権もフェラーリ所属のマイク・ホーソーンが制した。

1959年、1960年は独自のミッドシップ[*]マシンを熟成したクーパーがトップランナーに躍り出て、ジャック・ブラバムを擁しドライバーズ・コンストラクターズ選手権を連覇した。

250px-En_mr001_english.png[*]ミッドシップとは

エンジンの搭載法の1つであり、エンジンが車体の中心付近(前軸と後軸の間)に配置される構造のこと。
一般的には、運転席と後輪の間にエンジンを配置し後輪を駆動する形式を指すことが多く「ミッドエンジン・リアドライブ」を意味する『MR』と略称される。

<1960年代>
1961年にエンジン排気量を「自然吸気式1,500cc以下(過給式禁止)」とする新規定が施行され、「葉巻型」と呼ばれる軽量マシンによる競争となった。ブラバム(ジャック・ブラバム)やマクラーレン(ブルース・マクラーレン)のようなドライバーがオーナーを兼任するコンストラクターも誕生した。

120px-Jim_Clark.jpgフェラーリは1961年と1964年にダブルタイトルを制覇したが、本社経営が安定せず成績不振に陥る。代わってコーリン・チャップマン率いるロータスがアルミ製モノコックシャーシなど革新的な技術を生み出し、F1界のトレンドリーダー的存在となった。チャップマンに見出されたジム・クラークは通算25勝と2度のチャンピオンに輝き、1968年に事故死するまで最速ドライバーの名をほしいままにした。

1960年代後半は1966年にエンジン排気量規定が「自然吸気式3,000cc、過給式1,500cc」に改められ、初年度と1967年は信頼性の高いレプコエンジンを積んだブラバムがダブルタイトルを連覇した。1967年には安価で高性能な量販型エンジン、フォード・コスワース・DFVエンジンが登場し、以後20年近くにわたり多くのチームに供給され、通算155勝を挙げることになる。

220px-HillGraham19690801Lotus-Nordkehre.jpg排気量が2倍になったためエンジンパワーの活用法が模索され、ダンロップ、グッドイヤー、ファイアストン3社の「タイヤ戦争」によりワイドトレッドタイヤが登場した(のちに溝無しのスリックタイヤへ移行)。四輪駆動車の研究も行われたが、最も有効なのは走行中の気流を利用してダウンフォースを発生し、車体を路面方向へ押しつける手法であった。飛行機の翼を上下逆さにした格好のエアロパーツ(ウイング)が登場し、エアロダイナミクス(空力)開発競争の幕が開いた。

また、FIAが広告活動を解禁したことでタバコメーカーなどのスポンサーが参入し、F1界の商業的な拡大が始まった。伝統のナショナルカラーを捨て、F1マシンはカラフルなスポンサーカラーに彩られることになる。

<1970年代>
DFVエンジンとヒューランド製変速機の普及により、新興コンストラクターが「キットカー」と呼ばれるパッケージマシンを製作して続々と参戦した。F1製造者協会(FOCA)会長バーニー・エクレストンの拡大路線により、F1は名実共に世界規模のモータースポーツイベントへ成長する。ドライバーも国際色豊かになり、世界各地を転戦しながら実力伯仲の戦いを繰り広げた。

ティレルはジャッキー・スチュワートを擁し、新興チームとして驚異的な活躍をみせた。スチュワートは3度のワールドチャンピオンに輝いただけでなく、安全面の啓蒙活動にも貢献した。ヨッヘン・リントは事故死後にチャンピオンの栄誉を授かり、若き王者エマーソン・フィッティパルディは後進のブラジル人ドライバーに大きな影響を与えた。マリオ・アンドレッティは欧米を股にかけて活躍し、ロニー・ピーターソンの豪快なドリフト走法が人気を集めた。

220px-LaudaNiki19760731Ferrari312T2.jpgDFVエンジン勢の前に沈黙していた名門フェラーリはニキ・ラウダの抜擢により復活し、1970年代後半に黄金期を迎えた。ラウダは1976年中に瀕死の重傷を負いながら見事にカムバックし、引退・復帰をへて3度のワールドチャンピオンになるなどプロフェッショナルドライバーの規範を示した。

1970年代、グラウンド・エフェクトカーとターボエンジンへ・・
250px-ScheckterJody1976-07-31Tyrrell-FordP34.jpg空力デザインの試行錯誤により個性的な外観のマシンが登場した。サイドラジエター、ウェッジシェイプ(楔形)ボディ、スポーツカーノーズ、巨大な吸気ポッドなどが流行し、6輪車ティレル・P34のような奇抜なアイデアもあらわれた。

フェラーリ、アルファ・ロメオ(エンジンメーカーとしてF1復帰)などの12気筒エンジン勢に対し、馬力で劣るDFVエンジン勢は空力の追求に活路を求めた。なかでも1977年にロータスが開発したグラウンド・エフェクト・カーは一大発明となった。220px-2005_A1GP_Brands_Hatch_Katsuake_Kubota_Lotus_78.jpgベンチュリ効果によって車体底面の気圧を下げ「路面に吸いつくように走る」という画期的なアイデアはたちまち大流行し、その中から弱小ウィリアムズが上位進出のきっかけをつかんだ。

同年にはルノーがターボエンジンを用いて参戦。トラブルを重ねながらも開発を進め、1980年代のターボエンジン時代の先鞭を付けた。フランス勢はルノー以外にもマトラ、リジェ、ミシュラン(ラジアルタイヤを導入)、エルフ支援のドライバーなど国を挙げてのF1進出が続いた。

1980年代は・・・


<1980年代>
F1がテレビ放映権料収入により巨大ビジネス化するなかで、運営を巡る権力争いが起きた。現場監督者のFOCA会長バーニー・エクレストンと組織統治者の国際自動車スポーツ連盟(FISA)会長ジャン・マリー・バレストルの対立が表面化。コンストラクターもFOCA陣営(DFVエンジン勢)FISA陣営(ターボエンジン勢)とに分かれて一時は選手権分裂が危ぶまれた。両者は1981年のコンコルド協定で和解し、FISAが統轄面、FOCAが商業面を分担する体制を確立した。以後コンコルド協定は「F1界の法典」として機能するが、収入の分配や参戦資格などをめぐり様々な論争を起こしている。

FISA・FOCAの分裂騒動ではウイングカーの危険性が争点のひとつとなった。1982年にジル・ヴィルヌーブをはじめ重大な死傷事故が相次いだことから1983年よりフラットボトム規定が施行され、ウイングカーは姿を消した。

1980年代、ターボエンジン全盛期・・・
自動車メーカーが相次いでターボエンジンの開発・供給に乗り出すとDFVエンジンの共栄時代は終わり、1000馬力を超える熾烈なパワー競争が繰り広げられた。FISAが厳しいエンジン規制を課すなか、燃費と出力のバランスに優れたターボエンジンが勝利を独占する傾向が強まり、TAGポルシェ、次いでホンダが最強エンジンと呼ばれた。

この2メーカーと組んで一時代を築いたのがロン・デニス率いる新体制マクラーレンであり、1984年から1991年までの8年間に6度ダブルタイトルを制覇した(1984年には16戦12勝、1988年には16戦15勝を記録)。また、ジョン・バーナードの設計で1981年に実用化されたカーボン製モノコックは、車体剛性を高め安全性の面でも顕著な進歩をもたらした。
220px-ProstAlain_McLarenMP4-2B_1985.jpg
ターボ時代に「四強ドライバー」と呼ばれたのが3度のワールドチャンピオンを分け合ったネルソン・ピケとアラン・プロスト、遅咲きのナイジェル・マンセル、驚異の新星アイルトン・セナである。マクラーレンで最強コンビを組んだプロストとセナは2年続けて接触でチャンピオンを決するという遺恨を残し、熾烈なライバル意識がコース内外で注目を集めた。

しかし、耐久レースや世界ラリー選手権グループBなどの他カテゴリでターボエンジン搭載車の重大事故が続発した事により、行きすぎたパワー競争は終焉を迎える。FISAが1989年から「自然吸気式3,500ccエンジン、過給式エンジン禁止」とルールを改訂したため、ターボエンジン全盛の時代は幕を下ろす事となった。ただし、これを機に新興コンストラクターの参入が相次ぎF1は活況を見せ、1992年まで予備予選が実施されることとなる。

<1990年代>
220px-Damon_Hill_1995.jpgターボエンジンの禁止後は総合的なマシン開発が鍵となり、セミオートマチックトランスミッション、アクティブサスペンション、トラクションコントロールシステムなどの電子制御装置が普及した。ダウンフォース発生に効果的なハイノーズが登場し、エイドリアン・ニューウェイ、ロリー・バーンら空力追求派のマシンデザイナーが脚光を浴びた。

ウィリアムズはルノーとのジョイントで5度のコンストラクターズタイトルを獲得し、1990年代を代表するチームとなった。ルノーはホンダから最強エンジンの名を引き継ぎ、ベネトンも含めて6年連続チャンピオンエンジンとなった。一方でハイテク競争による開発費の高騰で撤退するコンストラクターが相次ぎ、ロータス、ブラバム、マーチといった名門でさえ資金難から消滅の道をたどった。

1990年代、世代交代へ・・
費用と安全面の懸念から、1994年には電子制御技術が大幅に規制された。しかし、英雄的存在であるセナの衝撃的な事故死など死傷事故が相次いだことから、さらなるスピード抑制対策が重ねられることになった。1995年にはエンジン排気量が「自然吸気式3,000cc」に縮小され、1998年からスリックタイヤに代わり溝付きのグルーブドタイヤが導入された。同年には35年間にわたり通算368勝の大記録を残したグッドイヤータイヤが撤退した。

決勝中の燃料再給油が解禁されると、燃料搭載量やピットストップのタイミングなどのチーム戦略が勝負の要諦となり、これを完遂するベネトンのミハエル・シューマッハが時代の寵児となった。フランス勢に代わってシューマッハらドイツ勢が台頭し、メルセデス・ベンツエンジンが40年ぶりにF1に復帰した。

1996年、1997年の王者となったデイモン・ヒル、ジャック・ヴィルヌーヴは往年の名手、グラハム・ヒル、ジル・ヴィルヌーヴの息子であり、二世ドライバーの活躍はF1誕生から半世紀の歴史を象徴するものとなった。
220px-Hakkinen.jpg
ホンダ撤退後に低迷したマクラーレンはメルセデス・ベンツエンジンとブリヂストンタイヤとのジョイントで復活を果たす。ミカ・ハッキネンはF3以来のライバル、シューマッハとの対決を制して1998年、1999年のドライバーズチャンピオンに輝いた。





<2000年代>
220px-Michael_Schumacher_Canada_2006.jpg1983年以来長くタイトルから遠ざかっていたフェラーリは1999年にコンストラクターズタイトルを獲得すると、2000年から2004年までシューマッハとともに黄金時代を築いた。シューマッハは最多勝利(91勝)、ポールポジション獲得数(69回)などの歴代個人記録を更新し、2003年にはファンジオの持つワールドチャンピオン5回の大記録を塗りかえ、その数を7回まで伸ばした。

ポスト・シューマッハ世代のドライバーでは育成機関やGP2で経験を積み、20代前半で活躍する若手選手の存在が目立つ。220px-Fernando_Alonso_2005_Britain.jpgフェルナンド・アロンソは2003年に最年少優勝(22歳25日)、2005年に最年少チャンピオン(24歳58日)を記録するなど早熟の天才ぶりを発揮した。キミ・ライコネンはシューマッハの後任としてフェラーリ入りした2007年にチャンピオンに輝き、ケケ・ロズベルグ、ハッキネンに続く3人目のフィンランド人王者となった。

2008年には再び最年少記録が更新され、セバスチャン・ベッテルが初優勝(21歳73日)、ルイス・ハミルトンがチャンピオン(23歳300日)となる。ハミルトンはGP2出身者として、また黒人ドライバーとして初めての王者となった。

そして、現在へ・・・
自動車業界の再編が進むなか、これまでエンジン供給者の立場にいた自動車メーカーが既存のコンストラクターを買収して参戦し、企業ブランドを賭けて激突する時代に突入した。マシン開発では空力の絶え間ない進化が最重要課題となり、各チームは多額の費用をかけて大型の風洞施設やスーパーコンピュータを導入した。また、ブリヂストンとミシュランのタイヤ戦争も加熱し、レース結果を大きく左右する要素となった。

また、世界的なタバコ広告禁止運動により長くF1界の主力スポンサーであったタバコメーカーが撤退し、新たに情報通信・金融企業などが参入した。伝統あるオールドサーキットに代わり経済発展著しいアジア地域でのF1開催数が増え、贅沢な施設をもつサーキットが建設されている。

FIAのマックス・モズレー会長はトップチームで年間500億円超にまで上昇した参戦経費を抑えこむべく、自動車メーカーの反対を押し切りコスト削減策を断行した。2006年にはエンジンを「自然吸気式2,400cc V型8気筒」へ縮小、2007年にはタイヤもブリヂストンのワンメイクとなった。

これに対しメーカー連合はGPWC→GPMA→FOTAを結成。FIAと商業管理者のFOA・FOMに対し、運営の透明化と適正な利益配分を求める交渉を続けた。2009年にはバジェットキャップ制度の導入を巡りFOTAが新シリーズ独立を宣言し、FISA・FOCA戦争以来のF1分裂騒動となった。

2008年末に世界経済を襲った世界金融危機は、F1参戦自動車メーカーとスポンサーを直撃した。2009年にかけてホンダ、BMWザウバー、トヨタが相次いで撤退。2010年には3つの独立系コンストラクター(ロータスF1、HRT、ヴァージン)が新規参入し、F1と自動車メーカーの関係は新たな局面を迎えている。

また、近年の産業界の傾向に沿い、F1にも環境問題への配慮が求められている。運動エネルギー回収システム(KERS)の導入に続き、排気エネルギーの再利用(ターボエンジンの復活)やバイオ燃料の使用も検討されている。

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[ 2011/04/03 02:55 ] 7月26日までの記事 | TB(0) | CM(0)
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